2011年1月30日日曜日

真言宗豊山派は糞坊主

 年始早々トラブル続き母の三回忌を行えば高い金を払って寺とトラブル。
  御経は自分で毎日読んでいるので坊主に読んでもらわなくても十分両親は喜んでいる。今年はもう一度、父の七回忌があるがこちらは自分で法要を営むつもりだ。つまり坊主には金を払わないで自宅で行う予定だ。
  年忌法要などというものは、むかし寺の僧侶が利益を上げる方法として考え出したものだ。他界した人を祀るのは何も寺の僧侶だけではない。キリスト教もあれば、古くは神道もある。塔婆や年忌法要は仏教の金儲け主義から来た考え方で、別に檀家さんが自分で御経を唱えて法要とすることが間違いとはしていない。ただ、ほとんどの檀家さんは自分では御経が読めないので坊主に足元を見られ高い金を払わされているに過ぎないのだ。
  昔は寺子屋と言われ教育機関の一貫を司り、僧侶=知識人の方程式があった。現在は1時間で10万円以上のボッタクリバー的年忌法要、写経と言って1000円で紙を売りつけるボッタクリぶり、塔婆も同じ考え方だ。
  ほとんどの寺が宗教法人つまり会社運営の上、税金が免除されている。本山とも成れば下界の寺からの上納金で運営されている。まるでヤクザの集金システムと同じだ。このシステムに負けたくなければ自分で勉強する以外に方法はない。
  自分自身はこのヤクザ寺から逃げ神道でも信心するべきと考えているところだ。個人的には儒教、道教等が自分の追い求める学問と考えている。そこにも人が生まれて死するまでの教育があるからだ。だが、現在の日本には自由や権利の主張はあっても義務や責任は果たさない事がこの寺からも伺える。
  私の両親は戒名で150万円、寄付で100万円払っている。つまり、両親共に合わせると500万円の大金が支払われている。それ以外に寺の行事は全てお付き合いしていた。これが坊主には逆効果なのだろう。「この家は金がある」と思わせてしまうのだろう。3~4年短期間でこれだけの金を払うと坊主に足元を見られることが分かった。もうひとつわかった事は仏には使えていない事だ。
  仏様に使えていれば我が両親から500万円以上の金を受け取りながら、毎週墓参りをする私のような人物をどんな事があっても怒鳴れるはずがない。修行もしていない。徳も積んでいない。心から仏に使えていない。簡単にいえば袈裟を着ているだけ。だからこそ「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」との言葉が生まれてしまう。私は言いたい。「坊主憎けりゃけ今朝まで憎い。今朝と言わずに明日も明後日もずっと憎い」と。
  某会社では100万円で墓地、墓石、永代供養まで行なってくれるのに対して、墓地、墓石で500万円。戒名寄付で500万円の一千万円貰ってもまだ満足しないような坊主は糞坊主と言って良いだろう。